やまぎ日報 265

4月11日

副業。明日が胃カメラのため絶食。もちろん禁酒。配信で過去のライブ動画を公開しあーだこーだ言う。

4月12日

甲子園風に言うと12年ぶり2度目の胃カメラ。12年前はギンギンに覚醒した状態で胃カメラを飲んだが、今回の病院は鎮静剤を使って眠らせてくれるそうだ。看護師さんに「キンチョーしてるんですが麻酔効きますかね?」と不安をこぼすも、横になって先生を待ってる間にすでにナチュラルに眠くなる。まだ鎮静剤入れてない。先生登場で「少しずつ眠くなりますからね〜」と言われたところで記憶がない。気がついたら看護師さんに連れられてソファに座るところだった。鎮静剤恐るべし。希死念慮はないが、こんなふうに死ねたらいいなと思ってしまった。運転も細かい作業も一日禁止とのことで、自宅でボーッとする。夜はすっからかんの胃にご褒美のお寿司。

4月13日

栃木県の佐野アウトレットで小倉とバッタリ会う。「佐野アウトレットに行こうと思う」という情報だけ与えて、以後携帯の電池が切れ連絡がつかなくなるという、小倉にしてみれば広いアウトレットでいるかどうかもわからないウォーリーを探すくらい面倒な話だったと思うが、無事に見つけてくれた。しかし会ったとて特に何をすることもなく、互いにショッピングをして帰った。

4月14日

新幹線で大阪へ。マスミサイルよっくんと回る「ヤマギヨシキ」の初日。久しぶりのハウリンバー。「尾崎を一緒に歌ってほしい」というお客さんからのリクエストに応え、よっくんと尾崎豊を熱唱。よっくんの選曲はベタ中のベタ「Forget me not」。忘れたくても忘れられないクセが強すぎるダブル尾崎の「忘れな草」となった。初日、どんな感じの絡みになるかまずは探りを入れてみるつもりであったが、全然いけた。「35過ぎて音楽やってるやつはだいたいおもしろおじさん」というのは本当だと思った。よっくんもまた愛すべきおもしろおじさんである。「打ち合わせがある」と課長みたいな理由を言い残し颯爽と去っていったよっくん。山岸くんは久しぶりに会った友達とハウリンバーで少し飲み、ホテルに帰って恒例の一人飲み。

4月15日

大阪から岡山へ移動。行きの新幹線と帰りの飛行機を予約して満足した山岸くんは間の移動をまったく考えていなかった。親切なお客さんに教えてもらったルートを頼りにのんびり岡山へ。こちらも久しぶりの城下公会堂。リハをのぞきに来たカジースが「財布を忘れて駐車場代が払えん」と言ってぼくから1,000円を奪っていった。ライブは昨日に引き続きリクエストに極力応えるセットリスト。そしてリクエスト特にないのに昨日に引き続きアンコールでよっくんとダブル尾崎。しかも「Forget me not」に加えこれまたベタ曲「ぼくがぼくであるために」を歌う。もはや求められていなくても我々は歌うのだ、ぼくがぼくであるために。


終演後、小倉に「サシ飲みしてるよ!」とLINEを送る。「おお!よっくんと!?」と返事がくる。メガネ屋森山さんとサシ飲みの写真を送る。そっちかーい。

 

4月16日

10時にホテルを出されヒマな山岸くんは岡山で時間をつぶす。キングダムに行き仕込み中のカジースから1,000円を取り返し、2人分のコーヒーを買ってメガネ屋へ行き森山さんに遊んでもらう。


森山さんが視力検査をしてくれた。森山さんの診断によるとぼくの目は「瞳は人一倍澄んでいるが老眼に片足突っ込んどる」とのこと。岡山駅からマリンライナーに乗り瀬戸大橋を渡り高松へ。新しくなった高松DIMEにご挨拶に行く。うどんを食べる。会場のノアズアークへ行く。オープニングのトクダハルトくんがスムルースの徳田さんの甥っ子と知ってビックリ。おもしろおじさんの代名詞のような徳田さんとは対照的にハルトくんは歌も佇まいもまっすぐで気持ちのいい青年だった。そんな純粋なハルトくんを、アンコールのクセ強ダブル尾崎に巻き込むおもしろおじさんたち。最終日にふさわしくトリプル尾崎で大団円となった。

長い付き合いではあるがベッタリというわけでもなかったよっくんと、たまにチョケながらステージで一緒に尾崎を歌う日が来るとは思わなかった。いい旅だったと思う。


終演後、小倉に「サシ飲みしてるよ!」とLINEを送る。「おお!よっくんと!?」と返事がくる。デューク岡野さんとサシ飲みの写真を送る。きれいな天丼となった。

4月17日

6時に起きてサウナ1セットして朝7時のうどん。バスで高松空港まで行って羽田へぶっ飛び。離陸してから着陸までの記憶がない。鎮静剤打たれたかな。帰宅し荷解きをして準備して今度は車で深谷へ向かう。


生まれて初めて「心霊写真撮れたらいいな」と思ってしまった。パイセンなら会いたい。

熊谷へ移動。モルタルにチェックイン。小倉も来てくれて急遽ライブに参加。一緒に演奏した「劇場」のアウトロで「未来の話をしよう、たとえば2035年」とアドリブで小倉に話しかけてみた。当然「未来の話をしよう、たとえば2035年」とCDどおりに返してくると思った。何も難しいことはない。しかし、なぜか小倉はテンパり「2035年って、干支は何どしだろうかァ?」と意味不明のボケをぶっ込んできてきた。自分で言うのもなんだけどいい空気だったのが一瞬でお笑いに変化した。恐ろしい男である。

今時珍しい壮絶な本数のツアーを回っているりさボルト&Hysのライブは、さすが場数を踏んで鍛えられているなぁという凄みのあるライブだった。小倉に言わせればこれは「ツアーハイ」という一種の躁状態とのこと。ならばたった4日間で「家に帰りたい」とホームシックになっている私は「ツアーロウ」という一種の鬱状態なのかもしれない。


りさボルト&Hys、本当にありがとう。後輩にケツを叩かれたような夜だった。20時半にぼくのステージは終わったが、小倉は21時には群馬の牛丼屋で牛丼を盛っていた。もはやドッペルゲンガー。