佐久間さん、ありがとうございました。

佐久間正英さんが亡くなられました。インディーズ時代から最新作まで実に7年間、プロデューサーとしてウラニーノに携わってくださいました。大きな存在でした。最後の最後までお世話になりました。

「佐久間さん、死んじゃった」。直後は小倉くんと話していてもなんだか現実としての実感がありませんでしたが、「逝去」とか「追悼」とか、ニュースなどでそんな言葉を目にするようになり、佐久間さんはもういなんだなと、ありきたりな表現ですが胸にぽっかりと穴が空いたような、そんな感覚になりました。湿っぽいの嫌いな人でしたから、めそめそと泣いてたら「激おこプンプン丸!」なんて天国から言われそうだなと思いながらも、何日かはこっそり泣きました。

病気のことを教えてもらったのは去年の6月。その後も佐久間さんは毎日スタジオに来てくれて、「音楽はあるか」のレコーディングを一緒にしてくれました。これまでと少しも変わらず、冗談を言い合い、笑いの絶えない和やかな雰囲気の中、製作は進みました。変わったことといったら、佐久間さんがごはんを残すようになったことくらいでした。「君たちは末期がん患者をこんなに働かせて~」なんて笑いながらぼくの隣でベースを弾いている佐久間さんを見て、この時が1秒でも長く続いてほしいと願いました。徐々にお身体はきつくなっていたのでしょうが、つらそうな姿はぼくらには見せませんでした。レコーディングに入る前に「この作品に最後まで立ち会えなかったらごめんね」と言っていた佐久間さんは、脳腫瘍の手術の3日前にミックスをすべて終わらせ、アルバムを完成させてくれました。蕎麦屋で一緒にお酒を飲んで、別れ際に「佐久間さんいってらっしゃい!手術がんばってね!」と送り出した後ろ姿、その背中がひょろひょろととても細かったのを思い出します。

手術から無事に帰ってきた佐久間さんは、またお仕事を続けながら、ウラニーノのツアー初日に駆けつけてくれたり、テレビ収録にぼくを呼んでくれたりもしました。そして年末のツアーファイナル。体調も厳しい中、スペシャルゲストとして「音楽はあるか」のギターを弾いてくれることになりました。残念ながら叶いませんでしたが、当日「せっかく練習したのに残念。本当にごめんね」とメールをくれました。それが連絡を取った最後でした。

佐久間さんの訃報を聞いた日、窓から見えたスカイツリーを見て、なんとなく登ってみたくなり、登ってきました。見渡す世界はとても美しかったですが、もうこの世界のどこを探しても佐久間さんには会えないのかと思うと、涙が溢れました。電話をしたらいつものやさしい声で「どうもどうも~」と出てくれるんじゃないかって、Twitter見たらちゃっかりつぶやいてるんじゃないかって、そんな気がして何度も携帯電話を握り締めました。

新曲できました!と送っても佐久間さんからはもうお返事来ないんだな。巨匠らしからぬしょうもないギャグで失笑させてくれることももうないんだな。独特のイントネーションで「やまぎ」と呼んでくれる佐久間さんの声ももう聞けないんだな。そうか、もう佐久間さんはいないのか。

佐久間さん、ウラニーノをプロデュースしてくれてありがとうございました。佐久間さんと一緒に作った作品はぼくの誇りです。一緒に過ごせた時間は一生の宝物です。佐久間さんが作ってくれたギター、佐久間さんちの壁の塗装と同じペンキで塗ってくれたギター、今日もいい音で鳴ってます。聞こえてますか?「やまぎ、チューニングもう1回ちゃんとしなさい~」って、もう言ってくれないんですか?PAやろっかなーって、ふらーっとライブハウスに来てくれないんですか?

アルバムが完成する度に、「売れちゃったらどうしよう」なんて茶化してくれたのに、佐久間さんが生きている間に売れなくてごめんなさい(笑)いろいろ心配もかけてごめんなさい。今思うことは、ぼく自身が佐久間さんの作品のひとつとして、生き続けていけるようにがんばろうということです。

佐久間さんいないけど、ウラニーノは歩いていきます。佐久間さんに教えてもらったことを道標と糧にして。いつもの調子で「やってますね~」とか言いながら、天国から見守っていてくださいね。前みたいにこっそりライブ見に来てくれてもいいけど、佐久間さんでかいからステージからすぐわかっちゃうよ。

佐久間正英という日本を代表する偉大なプロデューサー。とてつもなく大きな存在でありながら、ぼくらと接してくれるその姿は、最後までお茶目でかわいい「佐久間さん」でした。改めて、一生ものの財産と、たくさんの思い出をありがとうございました。佐久間さんに出会えて幸せでした!

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